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2018年7月22日 (日)

【津久井やまゆり園の事件から2年で、想う。~その7~】

 悲しんでばかりもいられない。浜坂は、明日からも、仕事をしなければいけない。

 障害のある方と日々向き合って、「他の者との平等」(障害者権利条約)を実現する仕事に、しっかりと向き合っていく。

 障害のある方のいのちは、障害のない私たちと同じくらいの重さがあって、価値がある。そして、人間のいのちは、かつてこの国の政治家が言ったように「地球よりも重い」。

 「いじめに苦しむわたし」「過労死寸前のわたし」「ネットカフェに泊まるお金もなくて、電車にでも飛び込んでしまおうか考えているわたし」と「障害のあるあの人」は、「生きづらさを抱える」という意味で、また、「人として幸せになりたい」と願っている意味で、ひとしく「地球より重い」価値がある。

 お互いが攻撃し合い、潰し合うのではなく、それぞれが幸せになれる方向へ、予算を回し、制度を整え、法律を作り…ということを、政治家でも何でもない「わたしたち」がやらなければならない。「障害のある人」は、まさしくそれをやってきたのだ。それぞれが幸せになれる社会の実現をめざす活動を。

 だから、そこに敬意を表し、浜坂もそういう仕事をする。

 ただ、それだけの話である。若輩者の浜坂でも語ることのできる、取るに足らない話である。

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【津久井やまゆり園の事件から2年で、想う。~その6~】

 もうひとつ、指摘したいことがある。

 浜坂は、障害のある方が、生きづらい暮らしを変えようと、行政に関わったり、市民運動にかかわる姿を見てきた。

 障害のある方は、長年このような運動をすることで、少しずつ自らの制度を良くし、生活を向上させてきた。

 いじめに苦しんでいた多感な時期、「新聞で報道されたあの子みたいに、浜坂もどんな方法で自殺したら新聞に取り上げてくれるだろうか」とか夜も寝ないで考えたり、また、神戸連続児童殺傷事件の「透明な存在であるボク」という言葉に共感し「どうせ自分が自殺したって、誰にも何も関係ない。だって、はじめから自分は透明なんだから」などと日記に書きなぐったりしていた浜坂が「透明な存在」でなくなったのは、障害のある人と関わる中で「社会と関わる」ことを知った時だった、と考えている。

 「社会と関わる」ことをしはじめた瞬間、同じような考えの人がいたり、自分の考えに反対する人がいたり、「社会」とか「時代の流れ」とか「日々のニュース」とかを、「自分の考え」を基本として自分の中に位置づけしなおす作業がはじまる。その中で、「自分はどうやって生きていこうか、どうやって社会や、時代の流れと関わっていこうか」と、大きな視点でものを考えることになる。「透明な存在」から脱し、「自分が死んだら、誰かが悲しんでくれる」と思いはじめ、自分自身を肯定し、大事にしようと思えるようになったのも、この頃からだ。

 いじめに苦しんでいたり、過労死寸前の状態に置かれていたり、引きこもりを強いられているような方が、それを「社会のひずみの結果」として社会を変えていく、まさに「社会的に正しい」方向へ意識を向けるのではなく、ネットで飛び交う「仕方がないよねえ」「そんなもの、自己責任だろ!」の言葉に潰されたままだと、「透明な存在」は、ずっと「透明な存在」であり続ける。

 そのような人が考える「社会から認められたい」欲求、いわゆる「承認欲求」は、どのような結果を生むのだろうか。

 おかしな動画をネットにアップして「いいね!」をもらうことだろうか。

 「誰でもいいから」無差別に人を殺して新聞に載ることだろうか。いずれも、過激で「反社会的」である。

 あるいは植松被告は、「社会から認められたい」だけで、その方法など、どうでも良かったのかもしれない。「社会から認められるために」「過激で」「反社会的な」ことを考えていて、たまたまたどり着いたのが「優生思想」であり、以前勤務をしていた障害者施設であったとしたら、実に悲しい。

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【津久井やまゆり園の事件から2年で、想う。~その5~】

 克服することができなかった原因は、浜坂は福祉をめぐる労働環境の厳しさだったと考えている。

 労働環境の厳しさと分かったような分からないような言葉を使ったが、要は「障害のある方の人間らしい暮らしを保障する仕事ができていたかどうか」ということだ。

 福祉の現場での人手不足は深刻であるし、2006年の障害者自立支援法(現:総合支援法)が、「自立支援」とは真逆の、不当に人員配置的に厳しい環境へ「津久井やまゆり園」をさらしたことは、指摘しておかなければならないであろう。事実、津久井やまゆり園における人件費は右肩下がりの状態が続いていた。

 それを補うために、夜間の徘徊などをしてしまう障害当事者を車いすにしばり上げて身体拘束したり、あるいは不当に強い薬を処方して、夜間はひたすら眠らせるということもしていたと伝え聞く。適切な人員配置を行っていれば、本来このようなことはせずに済む方たちである。

 「こちら側」の都合でこのようなひどい仕打ちをしておいて、車いすにしばり上げられていたり薬で眠らされている障害のある方を見て「障害者はみんな死んだ目をしている」とはよく言ったものだ。それで「障害者には生きる価値がない」とはよく言ったものだ。「身勝手」というのは、こういうことを言う。

 ただし、もうひとつだけ指摘しておかなければならないことがある。

 植松被告や、障害のないほかならぬ私たち自身が、社会から「身体拘束」「薬物拘束(強い薬を処方して動けなくさせる)」のようなひどい扱いを、受けていないだろか?

 もちろん、実際に身体拘束や薬物拘束を受けている、という意味ではなく、比喩的な意味である。福祉の仕事は、正直、苦しい。家には寝に帰るだけ、という環境に置かれる職員も珍しくない。それは、福祉への予算が適切に配分されず、おのずと労働条件が悪くなるというそもそもの原因がある。法制度や予算のせいで、福祉現場に働く者が、労働条件的にまるで奴隷のような扱いを受けることは、多く見受けられるのだが、このことに気づかない人が、結構いる。

 自分自身がこのような扱いを受けていて、支援すべき対象である障害のある方が身体拘束を受けている姿に、自己を投影してしまったとしたら?怒りや攻撃性というのは、自分自身のコンプレックスを他者に見出した場合に起こると聞く。「社会のゆがみが植松被告を事件に向かわせた」という、分かったような分からないような言葉の意味は、要するに、そういうことなのだろうと思う。

 そして、「植松はよくやった!」みたいなことをSNS上でつぶやく人が、あるいは同じような自らの『生きづらさ』を障害のある方に投影して憎しみをぶつけているとすれば、この国はどれだけ多くの国民を「家に帰って寝るだけ。過労死寸前」「逆に仕事すら与えられないでネットカフェ難民してる」「恋愛や結婚なんて夢のまた夢、考えることさえしなくなってしまった」みたく、奴隷のようなひどい状態に置いているのか、ということになる。

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【津久井やまゆり園の事件から2年で、想う。~その4~】

 浜坂自身は、大学時代に知り合った障害のある方のボランティアをする中で、一緒に笑い、一緒に旅行し、一緒にお酒をのみ、いろんな話を聞いた。そしてその方の知り合いである同じく障害のある方と何人もかかわりを持ち、同じ経験をした。

 この原体験が、障害のある方について「何も変わらない。浜坂と少しも違わない。『人として幸せになりたい』と願っていることについては」という浜坂の信念となって、今も息づいている。そして、そのまさしく浜坂と何も変わらない方たちが、障害があるということで、いろんな生きづらさの中で暮らしていて、しかもそれを無くそうと、毎年行政へ出向いて制度改善へ向けた市民運動までしていた。

 「いじめ」という学校制度のひずみに苦しみ、そこから逃れてきた浜坂と、障害があるための「生きづらさ」に直面しながらそれを変えようと社会へ関わろうとする彼らの生き方が、浜坂の中で重なって見えた。

 このような視点で障害のある方が置かれた歴史を知っていくと、「いじめ」の嵐が吹き荒れた浜坂の多感な時期とは比べ物にならないほど、差別され、隔離され、人格を否定されながら、それでも「社会のひずみによって奪われた人間らしい暮らしを取り戻そう」と闘ってきた歴史の連続であった。

 この方たちと一緒になって「社会と関わる、社会へ向けて声を発する」ことをしていったら、浜坂も幸せになれるのではないか、浜坂も過去の「いじめ」と向き合えるのではないか。

 このようなことを今も時々考えながら、日々の業務にあたっている。

 生身の人間に向かい合う仕事なので、基本、苦しい。時には、「障害があると言って、甘えてるだけなんじゃないか」という場面に遭遇することもある。

 時々、「浜坂がこんなに苦しい思いをしているのに、障害のある方といったら…!」という考えに傾くことが、まったくないと言ったら、それは嘘になる。障害のある方自身が、障害に「甘えて」、ある種わがままのようなことをいう場面も、正直、ある。

 しかし、根底にあるのは、「人として幸せになりたいと願っていることについては、浜坂と何ら変わらない」という信念であり、障害のある方を支援する上で「問題行動」とされることも、ここから来るものだという認識がしっかりできていれば、克服するのは割と簡単で、多くの職員は、しっかりと克服している。

 植松被告の場合は、残念ながら、克服することができなかったということだ。

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【津久井やまゆり園の事件から2年で、想う。~その3~】

 浜坂の来歴をざっくり書くとこのようなことになる。年配の世代からは「なんだ、たかだかそれくらいで。俺たちの時代は…」とお説教を食らいそうだが、強調したいのは、浜坂の世代は浜坂の世代で、それはそれで十分苦しい時代を生き延びている、ということだ。

 年間の自殺者数は、1998年から2011年まで実に14年間にわたり、3万人を超え続けた。これは、イラク戦争の際の戦死者数を上回る数だ。植松被告もこの時代のさなかに、多感な時期を過ごしている。

 生きることそのものが、この日本においては「戦争」なのだ。とりわけ、「人間らしく生きる」ことについては。

 浜坂よりも上の世代が、果たして浜坂自身もしていたように、ナイフをしのばせて学校に通っていただろうか。浜坂よりも上の世代が、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の犯人が発した「透明な存在であるボク」という言葉に、どれほど共感してくれただろうか。

 「何が平和だ、何が子どもの権利だ、そんなもの全然嘘っぱちだ!」みたいなことを浜坂は当時の日記に書きなぐっていた記憶があるが、あるいは植松被告も、労働条件の悪い福祉の職場の中で「何が障害者の権利だ、何が人間らしい暮らしだ、そんなもの全然嘘っぱちだ!」という考えに変わってしまった、ということか。

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【津久井やまゆり園の事件から2年で、想う。~その2~】

 以前にもこのブログで話したことがあるが、浜坂は転校を機に小3~中3までの7年間、「いじめ」にずっと苦しんできた。

 中2のときに、愛知県西尾市で、当時同じく中2だった大河内清輝君がいじめを苦に自殺し、それが大きく報道されたのを機に同世代の自殺が相次ぎ、社会問題になった、そういう時代をくぐりぬけている、というか、「生き延びている」。

 当時、西尾市の事件の報道を見て、「今さらになってこんな当たり前のことを言うなんて、大人はどれだけ分かってなかったんだ!」とやるせない気持ちになったのを思い出す。「浜坂も、テレビで何か言っている大人みたいに、ちゃんと声を発して、社会をぶった切ってやりたい!」などと過激なことを思いつつ、大学の教育学部に進学した。

 大学の実習で福祉作業所を訪れ、そこで知り合った障害のある方と実習後もボランティアでお付き合いをするようになったのが、福祉を志すきっかけとなった。

 しかし、卒業後は長く続く仕事にめぐりあえず、学童保育や特別支援学級の臨時教員、本当に仕事に困った時期は自動車工場や町工場にお世話になって生計を立てながら、何とか現在の仕事にたどり着いている。

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【津久井やまゆり園の事件から2年で、想う。~その1~】

 津久井やまゆり園の事件から、まもなく2年となる。

 事件の影響というのはあまりに大きいもので、浜坂のような取るに足らない人間の下にまで、最近、取材の話が来た。

 浜坂ひとりでは、話すことなど何もないと思い、同じ仕事をしている仲間にお願いして複数で取材を受けることになったのだが、そのあとになって、はたと思い返してみた。

 事件を受けて、県レベル、全国レベルの組織の長などがマスコミに盛んに登場しているが、植松被告と同じような若い世代の声は、あまり世間に届いていないのではないか。

 だとしたら、どれほど自分が若輩者であったとしても、どれほど背伸びをしてでも、まだ「若い世代」とくくられるうちのひとりとして、語らなければいけないことがあるのではないか。しかも、その「語らなければいけないこと」は、それこそ植松被告と比較的年齢が近い浜坂の、ごくごく私的な「ライフヒストリー・ライフストーリー」の中にこそ、隠されているはずだ。

 そう思い、「事件を振り返る」という意味で、浜坂のことを、語ってみたいと思う。

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