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2016年6月18日 (土)

阻止されたヘイトスピーチ 対策法で根絶なるか~その3~

もちろん、「権利擁護運動」に携わる私たち自身も、身を引き締めなければならないことがある。例えば。

 

大学時代、浜坂が路上で歌を歌っていたころ、出会った人の中に「いじめられて私の人生おかしくなったのだから、私は人より優遇されて当然だ」と公言する人がいた。浜坂自身子どものころにいじめを経験したが、この発言は許せなくて、大ゲンカしたことを思い出す。

 

こころの病をお持ちの方で、「私は病気で人生おかしくなったのだから、障害者年金ももらえて当然、『福祉』とは、私の人生をおぜん立てくれることだ」と言った人もいた。今、実際に福祉の世界で仕事をするようになっても、改めてこの言葉を振り返るたびに、つらく、悲しい気持ちになる。

 

こうした記述をすると、すぐに「浜坂は『いじめ』のことを分かっていない、『病気』のことを分かっていない」「つい先ほど『どっちもどっち』は差別だ、と書いたばかりなのに、何だ」という批判を頂戴することは、容易に想像がつく。しかし。

 

「~“されて”当然」。この言葉を許した瞬間、ヘイトスピーチによく出てくる「在日は『特権』を得ている」という誤った言説にもまた、説得力を与えてしまう。日本永住権は断じて「特権」ではない。また、浜坂を含めた福祉関係者は、決して障がいのある方に「特権」を与えよ、という活動をしているのではない。「誰かにおぜん立てされた人生」という「特権」を障がいのある方に与えるために、福祉関係者は仕事をしているのでは、断じて、ない。

 

「他の者との平等を基礎として」という言葉が、全50条の条文のうち、30回以上も登場する「障害者権利条約」。要するに、在日の方が「共に生きようという日本社会へのラブコール」と言葉にされるように、障がいゆえにこれまで苦しんできた人も、障がいのない人と同じように、喜びを分かち合い、引き続き苦しみも「分かち合いたい」という、切なるラブコールなのだ、と思う。

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