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2016年6月28日 (火)

「他人に迷惑をかけてはいけない」という嘘。

「他人に迷惑をかけてはいけない」という嘘。(いばや通信)

http://ibaya.hatenablog.com/entry/2015/06/25/095930

紹介するブログの中のもうひとつの記事「マッチ売りの少女を殺したのは誰か―自分をオープンなものにしている限り人間は絶対に死なない―」も、必読。

あまりに考え込んでしまったので、浜坂もシェアすることにします。教えてくれた親友へ。ありがとう。

もうひとつ。昨年から今年にかけて。どうしようもなくなった浜坂の「助けてください」というメールに、応えていただいた方々へ。ありがとう。本当に、ありがとうございました。

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2016年6月26日 (日)

川崎球場@新橋・フォーク酒場『落陽』。

1年3ヶ月ぶりのステージ。1曲だけだけど。めちゃめちゃ楽しかった、昨日の夜。

一緒に呑んでくれたササさん、がんさん、天晴さん、ありがとうございました!

いいですねっ「フォーク酒場『落陽』」@新橋。『落陽』という、名前が、いい。

そして、やっぱり、歌うならこれしかないと、「川崎球場」を歌わせていただきました。

「何が何でも東京・神奈川の地でしがみついて生きていきたい」という決意のもとに作った、神奈川にまつわる曲。これからも、大切に歌わせていただきます。

【川崎球場】

懐かしい野球チームの旗が 古びたラッパの音に乗せて いつまでも いつまでも たなびいていたよ

隣に座ったおじちゃんは ロッテが負け続けた日も ずっと応援してたって

知らない選手の名前 どんどん挙げて 話してくれるんだ

ラストゲームは超満員で この場所にはとても似つかわしくなく

それでも おかまいなしにビールをあおるおじちゃんの

だらしない横顔に ふと懐かしさを覚えながら 舞い上がる砂ぼこりに目を押さえた

 

あれは20年以上も前のこと 国鉄が無くなったとはいえ何も変わり映えはなく

相変わらず古びたネオンがまぶしかった川崎の街を

父親の手に引かれて 夕焼けの中を歩いていた 無邪気にはしゃぎながら 延びる影を踏んでいた

普段は堅苦しい父が 野球場へ来てビールを飲んだ途端に

どうしようもなく だらしなくなるのが たまらなく好きだった

試合すらそっちのけで ガラガラのスタンドを 走り回りながら あたたかい視線 感じていた

 

かつてこの場所に 野球場があった

どんな落ちこぼれも 会社の社長さんだって

ビールを飲んで ヤジのひとつでも飛ばせば

誰もが分け隔てなく 自分らしくいられた

そんな場所が 確かに かつてはあったんだ

 

父を亡くしてから もうどれくらい経ったろう そういえば 一度だけ スタンドに入れなかったことがある

ダブルヘッダーのその日 「こんなに人がいっぱいなのは初めてだ」と

父はぼやきながら家に帰って テレビ中継を見ていた

そして今 「さようなら 川崎球場」と書かれた横断幕を横目で見ている

見せたかったな この超満員のスタンドを

取り壊される野球場と 一緒にサヨナラしなくてはいけないのは

昔を引きずっている 自分かもしれないね

 

父が亡くなる間際に テレビを見ながら予言していたことがある

デビューしたばかりの西武の松坂だけど あいつは少年野球からピッチャーをやっていたから

肩の寿命はもう長くないと のちに外れる予言を聞かされる

時代が変わっていく中で 狭かったんだね 球場も 僕らも

そんな人生の幕引きを祝うかのように ラストゲームはホームランの乱れ打ちさ

隣に座ったおじちゃんは そのたびに喝采を浴びせる

ロッテが勝ってよかったね おじちゃん

さあ このむき出しの鉄塔とも 陽に焼けて座るのに苦労した革ばりのイスとも

お別れさ 明日からどうやって生きていこうか

 

かつてこの場所に 野球場があった

どんな落ちこぼれも 会社の社長さんだって

ビールを飲んで ヤジのひとつでも飛ばせば

誰もが分け隔てなく 自分らしくいられた

そんな場所が 確かに かつてはあったんだ

 

ロッテオリオンズと大洋ホエールズの旗が

いつまでも いつまでも たなびいていたよ

「さようなら 川崎球場」と書かれた横断幕が

風に吹かれて いつまでも いつまでも たなびいていたよ

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2016年6月23日 (木)

貧困報道を「トンデモ解釈」する困った人たち ある階級の人たちは「想像力」が欠如している

貧困報道を「トンデモ解釈」する困った人たち ある階級の人たちは「想像力」が欠如している (東洋経済オンライン)

http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e8%b2%a7%e5%9b%b0%e5%a0%b1%e9%81%93%e3%82%92%ef%bd%a2%e3%83%88%e3%83%b3%e3%83%87%e3%83%a2%e8%a7%a3%e9%87%88%ef%bd%a3%e3%81%99%e3%82%8b%e5%9b%b0%e3%81%a3%e3%81%9f%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1-%e3%81%82%e3%82%8b%e9%9a%8e%e7%b4%9a%e3%81%ae%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%af%ef%bd%a2%e6%83%b3%e5%83%8f%e5%8a%9b%ef%bd%a3%e3%81%8c%e6%ac%a0%e5%a6%82%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b/ar-AAhpvPC?ocid=DELLDHP#page=1

…。『あまりにも書いても書いても「ちゃんと伝わった」気がせずに、たどり着いた結論は、日本はそもそも不平等で、階級間の景色が隔絶した社会だということだ。格差社会ではなく、階級社会。そしてその階級間の想像力や見ている景色の隔絶』。

この指摘に、気が重くなり、しばらく動けなくなってしまった。

では、いったい、どうすればいいのか。この先を考えるための、備忘録の意味を込めて、この日記に刻み付けておく。

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2016年6月22日 (水)

ほぼ無意味な参院選に、それでも投票へ行った方が良い理由

選挙が告示されたので、特定の政党や政治家の批判は、公的な肩書を持つ浜坂には、できなくなった(舛添要一・前・都知事などの、政治家のスキャンダルを除く)。

もちろん、これまでも浜坂は「視座=視点・論点=ある一定の価値観」を持ち、そこと照らし合わせて「どこそこの政党は…」という批判の仕方をしてきたので、「あいつは〇〇党か」みたいな陳腐な批判は的を得ていないものとして、これまでも却下してきたし、これからも却下し続ける。

で、今できるものとしては、選挙制度の是非や、「投票行動」そのものに関する論評。さっそくネットに出てきた記事を引用する。

ほぼ無意味な参院選に、それでも投票へ行った方が良い理由 (ダイヤモンドオンライン)

http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%81%bb%e3%81%bc%e7%84%a1%e6%84%8f%e5%91%b3%e3%81%aa%e5%8f%82%e9%99%a2%e9%81%b8%e3%81%ab%e3%80%81%e3%81%9d%e3%82%8c%e3%81%a7%e3%82%82%e6%8a%95%e7%a5%a8%e3%81%b8%e8%a1%8c%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%96%b9%e3%81%8c%e8%89%af%e3%81%84%e7%90%86%e7%94%b1/ar-AAhpBws?ocid=DELLDHP

賛否はいろいろあろうが、最後の部分「『選挙しても意味がない』は案外正しいそれでも筆者は投票を勧める」の項は、挑戦的な小見出しながらも、共感、共有すべきことが書いてあると思う。

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2016年6月21日 (火)

(-_-;)

http://lite-ra.com/2016/06/post-2350.html

(リテラ)

 

↑ドン引きしすぎて、記事のタイトルをここに記載することを、控える。過激なことを書いて人をドン引きさせる過激なことを書く浜坂でさえ、自身がドン引きしてしまうようなことも、ある。

 

「保育園落ちた 日本死ね」のブログが国会で取り上げられた時。

 

誰が書いたんだよ」「匿名だよ、匿名」「ちゃんと本人を出せ」「うざーい」「やめろよ、やめろ」などとヤジをとばした、議員の名前が、この記事に書かれている。

 

一部の人の言う「伝統的な家族」とは、かくも醜い言葉に集約されるものなのか。「伝統的な家族」のほかにも、美辞麗句のもと隠蔽されている醜い実態は、ないのか。

 

この記事が批判している政党だけではない。野党の中にも、選択的夫婦別姓の制度に対し「日本という国民国家を解体する運動」なんてことを言う政治家だっている。いわゆる「夫婦別姓デ国滅ブ」という、理解できない言説。

 

この人たちの言う「伝統的な家族」って。本当にめんどくさい。こんな価値観が、選挙を経て間違っても広がらないように。

 

冷徹なまなざしをもって、来る日に臨みたい。

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2016年6月20日 (月)

学校で大「恥ずかしい」→全部個室にします~大和、全市立小中学校で完全個室トイレ~…その2

障がいのない人だって、本当に「生きづらさ」を感じたことのない人なんて、はたして、いるのかい?浜坂自身が、福祉関係者としての職業病か、あるいは忌むべき性格上か、はたまた「いじめられた」過去の裏返しか、「障がいのある人」という言葉を使うとき、時として上から目線になっていることがある。そういう「レッテル貼り」に、どれほどの意味があるのかい?

 

あるいは、新年度を迎えて、後輩も入ってきたので、つい「育ててあげなくては」という感じで接してしまったら、実は中途採用者で、浜坂と同じくらい経験のある人だった、とか。

 

前の記事で「在日」の方に関することを書いたが、そもそも「在日」とか「障がい者」「いじめ」「DV被害者」「LGBT」「先輩・後輩」とか、そういう「対象化」することそのものが「レッテル貼り=差別意識」につながってはいないかい?

 

浜坂は、わりとこういう「わざわざ、騒ぎ立てる」ということを、ついうっかり、やってしまう。当事者が、「そっとしておいてほしい」と考えるようなデリケートな問題であるにもかかわらず。もちろん「そっとしておく」が「無視する、問題を隠す」ことになるのは、それはそれで問題だが。

 

メガネをしているから、何だというのかい?メガネをしている人を浜坂は大上段に論じたりしないだろう?なのに「在日」「障がい」「いじめ」とかは、大上段に論じてしまうのは、それだけ特別扱いをしているからではないのかい?それは、差別意識と、どう違うのかい?

 

「浜坂には差別意識があるのだ」、そういう自覚を浜坂自身が持ち、そこと向き合いながら社会と折り合いをつけていく、そういう生き方の中で、自然と「生きづらさを抱く人」への配慮も、身体感覚で理解できるようになるのだろう。

 

そのうえで、差別意識とか、変に特別意識することとかが、自然と消えたらと思う。浜坂が、自分自身でメガネをしていることに、なんの劣等感も差別意識も抱いていないように。

 

まだまだ、修行が足りない。トイレひとつの話題で、ここまで深く考えてしまった。

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学校で大「恥ずかしい」→全部個室にします~大和、全市立小中学校で完全個室トイレ~…その1

学校で大「恥ずかしい」→全部個室にします~大和、全市立小中学校で完全個室トイレ~(カナロコ)

 

http://www.kanaloco.jp/article/178534

 

一見、「へー、そこまでするかね」とも思ったりするが、記事の記述を見て、ハッとする。

 

「性同一性障害の子どもにも配慮し、個室化を決めた」。

 

あっ…と、思う。そして、気づかなかった浜坂自身を、反省する。

 

そういえば。こんな話を聞いたことがある。

 

車イスの我が子をトイレに行かせようとして、アメリカの空港で「車イス用トイレはどこですか?」と聞いたら、空港の係員みんな「?」という顔をする。とにかくトイレへ行ってみて、理由がわかった。すべてのトイレが車いす対応になっている。だから、わざわざ「車イス用」という名称を使う必要が、ないのだ。…

 

完全個室にすることで、性同一性障害の子どもが生きづらさ=差別を感じなくて済む。すべてのトイレが車イス対応になることで、車イスの方が生きづらさ=差別を感じなくて済む。「障がい」とは、障がいそのものによる機能的なもの、ではなく、社会の障壁(トイレが個室になっていない、車イス対応になっていない)によって生きづらさを被るもの、という「社会モデル」の考え方。

 

いつも浜坂は、メガネを例にとる。メガネのおかげで、視力の弱い人も日常生活を不便なく過ごしている。メガネがなかったら、あるいは視覚障がいの方と同じような不便を被るような極度の近視の方も、多くいることだろう。

 

また、メガネをしているからと言って、偏見の目を持たれることも、ない。そんなことをする人は「子どもじゃないんだから」と、むしろバカにされる。

 

障がいのある人は、障がいのない人がまったく気付かないようなところで、社会の障壁にぶつかり、傷ついている。

 

すべての障がいに対して、「障がいをバカにするなんて、子どもじゃないんだから」という言葉が当たり前に飛び交う社会というのは、いつ訪れるのだろう?

 

障がいに限らず、見えない「生きづらさ」に対しても。浜坂自身が「いじめ」「間接DV」に苦しんだ者として、時としてどうしようもない生きづらさに遭遇するように。

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2016年6月18日 (土)

阻止されたヘイトスピーチ 対策法で根絶なるか~その4~

それは、障がいがあるゆえの「苦しみ」ではなく、障がいのない人と「同じ苦しみ方」を、私もしたい、という意味において。「抜き打ちテストとか、山積みの宿題とか、掃除当番とか、したい。みんなが面倒くさいと言ってしまうことでさえ、幸せ。」あしなが育英会のコマーシャルに出てきた、名言のように。それだけ、障がいのない人と同じ生き方ができていなかった、ということだ。ひるがえって、在日の方も、ということか。

 

「みんなと同じくらしがしたい」。この思いに応えてくれる人は、誰か。この思いに応えてくれる政治家は、誰か。

 

障がいのある方を前にして、一見笑顔で接しながら、「障がいのある方の権利」と言った瞬間に、眉をひそめる政治家はいないか。「遠巻きに眺めているだけの人ごとのような響き。共に生きようと投げられたボールからひょいと身をかわすような態度」を取る政治家はいないか。

 

「日本人に『権利』という言葉はなじまない」と発言した政治家もいる。それも、厚生労働委員会に所属する政治家で。「国会で福祉に関して最も理解してくださる厚生労働委員会において、障害があることで排除されたことは、深刻なこの国の有様を示している」という、衆議院の参考人質疑出席を拒否されたALS当事者、岡部さんの言葉を思い出さずにはいられない。

 

参議院選公示前、あまり過激なことはこれからは控えなければいけないので、このタイミングで、前から紹介したいと思っていたこの神奈川新聞の記事を紹介した。「控えなければいけない」という、言論の自由を自ら制限していることに、沈痛な気持ちになりながら、文章を閉じることにする。

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阻止されたヘイトスピーチ 対策法で根絶なるか~その3~

もちろん、「権利擁護運動」に携わる私たち自身も、身を引き締めなければならないことがある。例えば。

 

大学時代、浜坂が路上で歌を歌っていたころ、出会った人の中に「いじめられて私の人生おかしくなったのだから、私は人より優遇されて当然だ」と公言する人がいた。浜坂自身子どものころにいじめを経験したが、この発言は許せなくて、大ゲンカしたことを思い出す。

 

こころの病をお持ちの方で、「私は病気で人生おかしくなったのだから、障害者年金ももらえて当然、『福祉』とは、私の人生をおぜん立てくれることだ」と言った人もいた。今、実際に福祉の世界で仕事をするようになっても、改めてこの言葉を振り返るたびに、つらく、悲しい気持ちになる。

 

こうした記述をすると、すぐに「浜坂は『いじめ』のことを分かっていない、『病気』のことを分かっていない」「つい先ほど『どっちもどっち』は差別だ、と書いたばかりなのに、何だ」という批判を頂戴することは、容易に想像がつく。しかし。

 

「~“されて”当然」。この言葉を許した瞬間、ヘイトスピーチによく出てくる「在日は『特権』を得ている」という誤った言説にもまた、説得力を与えてしまう。日本永住権は断じて「特権」ではない。また、浜坂を含めた福祉関係者は、決して障がいのある方に「特権」を与えよ、という活動をしているのではない。「誰かにおぜん立てされた人生」という「特権」を障がいのある方に与えるために、福祉関係者は仕事をしているのでは、断じて、ない。

 

「他の者との平等を基礎として」という言葉が、全50条の条文のうち、30回以上も登場する「障害者権利条約」。要するに、在日の方が「共に生きようという日本社会へのラブコール」と言葉にされるように、障がいゆえにこれまで苦しんできた人も、障がいのない人と同じように、喜びを分かち合い、引き続き苦しみも「分かち合いたい」という、切なるラブコールなのだ、と思う。

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阻止されたヘイトスピーチ 対策法で根絶なるか~その2~

…浜坂は普段、障がいのある方を支援する仕事をしている。「障がいのある方の権利を守る」活動、と言った途端、眉をひそめ、浜坂から遠ざかろうとする一群がいる。

 

「権利を守る」という言い方は、一種、政治的に映るのだろう。「98.1パーセントが年収200万円以下、60パーセント余りは、年収100万円以下」という、不当に差別されている実態を少しでも改善したいと訴える活動は、断じて「政治的」なものではない。なのに。どうして。

 

一般に「権利擁護運動」と呼ばれるこうした活動を否定する人たちの心理構造は、どのようなものなのか。神奈川新聞の記事は、見事に的を得た記述をしている。

 

『在日を治安の対象とみなし監視し、管理する指紋押なつ制度。その運動が拒否したものは日本社会そのものではなく、法の不条理だった。…(中略)…拒否ではなく、同じ社会への参加を求めるための運動。「これは共に生きようとする日本社会へのラブコールだ」それが合言葉だった』

 

『そしていま、再び問わねばならない。この社会に私たち在日の姿は見えているか、向き合おうとしているか――』

 

『「どっちもどっち」という、それでは共感は得られまいというたしなめるような、それでいて自らは遠巻きに眺めているだけの人ごとのような響き。共に生きようと投げられたボールからひょいと身をかわすような態度。』

 

『声を荒らげるというより、怒り、いら立ちの表出の裏にどのような思いが込められているか、この社会として少数者として生きる困難さに対する想像力を欠いた「どっちもどっち」。それはまた、自らの尊厳を守るために声を挙げた途端、条件反射のように眉をひそめる振る舞いにのぞく「在日のくせに」という見下しに重なってもいる。』

 

…この、「自らの尊厳を守るために声を挙げた途端、条件反射のように眉をひそめる振る舞い」に、「見下し」が潜んでいるという指摘を、しっかりと胸に刻み付けておく必要があるのだ、と思う。浜坂自身もそのような振る舞いをしてこなかったか、と。あるいは、浜坂自身がカウンターとして川崎に駆けつけなかったこと、そのこと自体が、もはや「差別」に値するのではないか、とも。

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阻止されたヘイトスピーチ 対策法で根絶なるか~その1~

阻止されたヘイトスピーチ 対策法で根絶なるか(週刊朝日)

http://dot.asahi.com/wa/2016061500043.html?page=2

 

この問題を考えるときに、浜坂が大学ノートの日記に大切にはさんである新聞記事がある。

 

今年の神奈川新聞、1月22日号。「『差別の自由』いつまで」と書かれた特集記事。

 

ヘイトスピーチに反対する市民団体設立の記者会見で、参加した一部の記者から、こんな質問が発せられた。以下、記事を抜粋の上、引用する。

 

『「カウンター(浜坂注:ヘイトスピーチに抗議する人たちのこと)の側の抗議の言い方が、それはそれでヘイトスピーチではないかと言われている。レイシスト(差別主義者)と呼ぶことが許されるのか、という意見がネットの社会の中で一定の支持を得ているのが現実だと思うが、どんな表現を心がけていくべきと考えるか」』。

 

『黙っていられなかった。「ヘイトスピーチは対等な立場でのやり取りではない。だから声を荒らげなければならなかった。差別する側と同じ言葉を同じトーンで使っているというが、言い返すこちらにそうした感情を引き起こしたのは誰なのか、きちんと踏まえてほしい」』

 

『そもそも質問は自身に向けられたものではなかった。…(中略)…カウンターの人たちのほとんどが日本人だ。「たたき出せ」「殺せ」と叫ぶ一団に当事者は近づくことさえ難しい。』

 

『それでも言わずにいられなかったのは、差別する側も抗議する側も「どっちもどっち」とみなす物言いにこそ、差別を放置してやまない無理解が潜んでいると思えるからだ』。

 

『会見終了後、質問した記者は「私はヘイトスピーチが表現の自由で守られるとは考えていない」と説明した。問われた側の感情を波立たせたのはしかし、記者個人の信条のいかんではない。…(中略)…同意しないにせよ、あなたにはそれが「差別はいけない」という考えに対置すべき意見に映っているのですか、という落胆、そしていら立ちだ』。

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「特急ひばり」がラストラン 国鉄時代の485系

「特急ひばり」がラストラン 国鉄時代の485系(朝日新聞デジタル)

http://www.asahi.com/articles/ASJ6L346BJ6LUNHB001.html?iref=comtop_photo

TBSニューズ・アイにも掲載されていましたが、より詳しい記載のある朝日新聞デジタルを引用しました。

浜坂の幼少期の記憶は、これでついに博物館でしか見られなくなってしまいました。

「今を生きろ!」ということですかね。

ラストラン、見に行きたかったなー

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2016年6月12日 (日)

「きょうされん第39回全国大会inくまもと」。

熊本行きの航空券を買う。

さっきネットで調べたら、安い航空会社のチケットが、残りわずかなことに気づいて、あわてて、買う。

10月22日、23日に行われる、福祉の全国団体が主催する全国規模の研修会「きょうされん第39回全国大会inくまもと」。

何年も前から開催が決まっていたイベント。今年1月のプレイベントでは、柳田邦男さんの講演や、大会イメージソング「翼が生えた日」を手がけた樋口了一さんのライブで、障がいのあるなかまたち一同で大いに盛り上がり、県内のニュースでも取り上げられた。

2500名の参加目標。会場の定員は3000名。たくさんの人を全国から呼ぶんだ、そう、気勢を上げた、その矢先に起きた今回の地震。

2年前に浜坂の地元、神奈川で行われた全国大会にいたく共感してくださった、熊本大会の事務局長。「障害のあるなかまがみんな楽しそうに踊っている、職員も本当に生き生きしている。あんな楽しい大会を、熊本でもやりたいんだ。だけど、あんな楽しいノリの職員は、熊本には僕と、あと一人くらいしかいないんだ(笑)。ほんと、神奈川がうらやましい」と、最大級の賛辞をいただいた方。

その方が、先月、熊本のみんなの総意として全国大会開催を決断し、協賛金の支援を泣きながら訴えていた。大会の開催費用は、全国からの協賛金で、まかなわれる。

この話を、今日、同じ神奈川県の福祉関係団体が集まる場で、話をする。

「浜坂くん、早く文書を作れ。うちの団体に『協賛金のお願い』の依頼文書をよこせ。うちの団体は、義援金の取り組みは一段落してるから、今の浜坂君の話、取り組む余裕が十分にある。団体としても、予算からの支出が十分対応できる。だから、文書を作ってくれ。そして、文書を送ってくれ。早くしてくれ」

協賛者の名前が載る、当日の資料。印刷業者に協賛者の名前が入ったデータを送って、印刷までのタイムラグを考えると、協賛金の集約は遅くとも8月半ばまでに行う必要がある。

本来ならば、とっくに協賛金募集の動き出しをしていなければならない次期。それが、地震の影響で、6月10日の現在になっても、依頼文書すらできていない。だから、浜坂くん、君が依頼文書を作れ。君が動け。そうしてくれないと、8月までに、うちの団体の定例会議がないかもしれない。そうすると、協賛金協力の決議が団体としてできない。だから、早く。

そう言ってくれた団体が、複数。

帰り道、うれしさのあまり、電車の中で泣きそうになる。

今、ネット予約した航空券の画面を見ながら、遠方に思いをはせる。

直接的なボランティア支援には行かれないけど。「いま、ここ」で、できることをやる。精一杯やる。

そして、10月の熊本へ、思いを飛ばす。

引き続き、がんばる。

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2016年6月11日 (土)

『報ステ』逃げ出した古舘伊知郎がバラエティ復帰で大はしゃぎ...「嬉しすぎて『報ステ』ファンに申し訳ない」

『報ステ』逃げ出した古舘伊知郎がバラエティ復帰で大はしゃぎ...「嬉しすぎて『報ステ』ファンに申し訳ない」(リテラ)

http://news.infoseek.co.jp/article/litera_4517/?p=1

昨日の放送、浜坂も、見ました。

古館は、F1の実況をしているころからのファンだったので、久しぶりに生き生きとしている姿を見れて、浜坂もうれしかったです。

ただ。記事はしっかりと苦言を呈しています。

「『テレビという情動のメディアで、反権力、反暴力、反戦争という姿勢は持ち続けようとやってきた。その自負は、あります』と語っている。そうした気概をもった人物がいまこそ必要なのに、またそのこともよくわかっているのに、人畜無害なバラエティの世界に舞い戻ってしまった。いちばんの問題はキャスターを追い込む政権にあることは明白だが、それでも、古舘が『国民の知る権利』に背を向けてしまったことには大きな失望を感じずにはいられないのだ。」

古館は今後、「人畜無害なバラエティーの世界」で、決して「人畜無害」ではないやり方で、記事が示す不安を払拭するような活動をしてくれる。そう、浜坂は期待しています。

だって、記事が示すとおり、本当に「『国民の知る権利』に背を向けてしまった」としたら。「古舘がほんとうにそんな姿勢だったのだとしたら、先日、ギャラクシー賞テレビ部門大賞に輝いた「独ワイマール憲法の"教訓"」のような、政権が激怒することが必至のあんな特集はつくれなかったのは間違いない」。

引き続き、期待する活動ができる場所に帰ってきた、と浜坂は解釈したい。

とにかく、「本当のことが言えない世の中」です。今日、午前中にアップした消費税の記事。

「消費減税をすれば社会保障の財源がなくなる、というのは官僚が与野党の政治家と結託して国民に減税をあきらめさせるための理屈です」。

福祉に携わる人間なら、誰しもが首を縦に振る指摘。どうしてこの指摘が、通らないのか。

時代の毒と言われても、本当のことを言い続けようと、古館の姿を見て、思う。「ギャラクシー賞」のように、しっかりと評価してくれる人がいることを、信じて。

『報ステ』古舘伊知郎“最後の一刺し”がギャラクシー賞を受賞! 安倍とヒトラーの類似性をドイツ取材で証明(リテラ)

http://lite-ra.com/2016/06/post-2303.html

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消費税5%に引き下げできる財源を内閣府資料は示唆していた

消費税5%に引き下げできる財源を内閣府資料は示唆していた(NEWSポストセブン)

http://news.infoseek.co.jp/article/postseven_418525/

「消費税減税」と主張している政党は日本では数少ないので、こういう話をすると「おまえは○○党か」などという陳腐な議論が生まれたりして、浜坂は辟易するのですが。

もっと、冷静にこの議論を語らなければいけない。消費税は、所得の低い者に、より負担が重くなる。「格差」「貧困」を解消したいのであれば、消費税減税&所得税の累進課税強化という、当たり前の話が通じないのが、この国の悲しい実態だと思う。

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2016年6月10日 (金)

平和だ。

職場である福祉施設の行事で、鎌倉へあじさいを見に行く。

 

帰路、江ノ電の極楽寺駅にて。学校帰りの小学生たちが、ホーム上で大合唱している。

 

懐かしいな。おそらく、学校で運動会の練習をした帰りなのだろう。「あか、あか、あか、オー、オー、オー!もーえろーよー、もーえーろ、あーかーぐーみー」という、「赤組のテーマ」。かわいい声が、ホームに響き渡る。

 

列車接近のアナウンス。すかさず、改札の外で交通整理をしていたPTAのママが、ホームに向かって声をかける。

 

「列車の中で歌うんじゃないよー」。

 

ほほえましい…

 

平和だ。

 

江ノ電が通過するのに合わせて、沿道のあじさいが、やさしく風に揺れている。

 

平和だ。

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2016年6月 7日 (火)

「どんなに姿カタチを変えながらでも どんなに傷つきながらでも。いつかきっと あなたの夢が 叶いますように」。

一人で残業をこなしながらユーチューブを聞いていて見つけた、中島みゆきのラジオ。

https://www.youtube.com/watch?v=7pTVvWksJAM (2016.4.17「オールナイトニッポン月イチ」&コンサート’95「LOVE OR NOTHING」より)

この人は、なんでこんな専門家以上に適切なことが言えるのか。振り返り、我が身の小ささが恥ずかしくなる。

「どんなつたない言葉でも 同じ時代 遠く離れて誰かにも 声が届く場所に立ちたい」。若かった頃、こんな詩を書いていた浜坂。

今。もっともらしい肩書きはついた。それなりの発言力のある場所には立つようになった。

だけど、その場所に見合う言葉を、浜坂は持ち合わせているか?

遠く離れた誰かに、届くに値する言葉を、浜坂は持ち合わせているか?

先月。熊本から来た福祉の大先輩が、壇上で言葉を詰まらせながら支援を訴えていた。

夜。光栄にも酒席を共にさせていただき、再び間近で、かくも豪快なその人が、体を震わせて流す涙を見る。

こんな時に、浜坂はどんな言葉を持ち合わせている?

身の小ささを感じながら。自分のことで精いっぱいで、何も言葉を発することができなかった悔しさから。

もっと確かな言葉を持ちたくて、駆けずり回る。

駆けずり回ることができない今は、遠い場所へ思いをはせる。それまでにできることをしっかりこなす。

中島みゆきは、はっきりと言う。

「どんなに姿カタチを変えながらでも どんなに傷つきながらでも。

いつかきっと あなたの夢が 叶いますように」。

こんな言葉をしっかりと口にするに値する、そんな存在になりたくて。

10月。熊本へ飛ぶ、その日までに、できるすべてのことを。駆けずり回りながら、こなしていく。

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2016年6月 5日 (日)

川崎のヘイトデモ、出発直後に中止 反対の数百人が囲む

日和見主義と批判されるのは承知の上です。何もしてこなかった自分自身を猛烈に自己批判しながら。

それでも、この記事について、みんなと喜びを分かち合いたい。

川崎のヘイトデモ、出発直後に中止 反対の数百人が囲む(朝日新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160605-00000015-asahi-soci

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2016年6月 4日 (土)

休日出勤。

休日出勤して、たまった仕事を猛烈な勢いでこなす。
 
BGMは吉田卓郎2006つま恋ライブが入ったCD「豊かなる一日」。
 
落陽 https://www.youtube.com/watch?v=MJt5RVMVilQ
 
今日までそして明日から https://www.youtube.com/watch?v=97J8bbA3i2I
 
音楽活動のリハビリは、まずはとにかく音楽を浴びるように聞くこと。
 
ライブを見に行きたいっ!
 
と思ったら、実は知り合いのミュージシャンが町田でフリーライブをやっていたことに、今、気づく。
 
ごめんなさい。次は、見に行きます。

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2016年6月 2日 (木)

ライブハウスを守れ!~真剣に考えなくてはみんなの居場所がなくなる

激しく同意。教えていただいたミュージシャンの大先輩、ありがとうございます!
 
ライブハウスを守れ!~真剣に考えなくてはみんなの居場所がなくなる(ISHIYA)

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2016年6月 1日 (水)

オバマ氏「広島に来てよかった」

 昨年から今年にかけて、いろいろとメンタル的にきつく、関係者のみなさまにはご迷惑をおかけしました。
 
 じわりじわりと回復することもありますが、浜坂の今回は、先週1週間で様々なことを考え、何だか「一気に」吹っ切れた感じです。
 
 仕事が楽しい。こんな感覚、久しぶりです。
 
 まだ気分の浮き沈みが激しいところもあったので、昨日の振替休日(夕方に1件だけ仕事が入っていたので、完全オフでなかったのが残念ですが)を利用して、だいぶクールダウンに成功しました。
 
 引き続き、がんばります。
 
 久しぶりに、ニュースから引用。
 
オバマ氏「広島に来てよかった」(時事通信)
 
 些細な記事ですが。こういう「人間の息遣い」が聞こえてくる記事って、いいですよね。
 
 広島訪問自体が大ニュースなわけですが。それよりも、そのことを、生身の人間であるオバマ氏自身がどう受け止めていたのか。
 
 あるいは、自身の名声づくりのため?ノーベル平和賞受賞者だからこそ、このタイミングでしか実現できない、などといった、アメリカの関係者による政治的思惑?など、週刊誌よろしく勘ぐったりもしてしまうわけです。
 
 だけどたとえ、そのような別のバイアスがかかっていたにせよ、生身の人間であるオバマ氏が「よかった」と漏らしていること。そして、わざわざこのような小さなことが記事になるということは、「よかった」と語るオバマ氏の姿が、側近→日本外務省→日本の記者と伝わっていくほどに、感銘深いものだった、ということなのでしょう。
 
 このニュースソースが記事になる経緯に、何らかのバイアスがかかっているとは、お人良しかもしれませんが、浜坂は考えないことにします。
 
 なんだかうれしくなったので、紹介することにしました。

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