« 「偏っていますが、何か」~その2~ | トップページ | テレビ報道の「顔」相次ぐ降板… 各局「公正」注文で及び腰? »

2015年12月28日 (月)

「偏っていますが、何か」~その3~

 神奈川新聞が、安倍政権を批判的に検証するシリーズ記事を出したところ、「偏向報道をやめろ」との声が多数寄せられた。それに対して神奈川新聞が新聞週間の特集面に書いた「偏っていますが、何か」という記事が、大きな反響を呼んだ。

 

 いわく、「権力批判はジャーナリズムの役割」「言論の幅が狭まれば民主主義は根元から揺らぐ。そうであるなら、私たちが直面しているのは、新聞記者である以前に社会を構成する一員としてどのように行動するかという問題であるはず」「民主主義の要諦は多様性にある。ひとりひとり、望むままの生き方が保障されるには、それぞれが違っていてよい、違っているからこそよいという価値観が保たれていなければならない。それにはまず自らが多様なうちの一人でいることだ」と。

 

 浜坂が明確にしたいのは、政治的立場ではない。自民党政権であれば自民党を、民主党政権であれば民主党を批判するのは、「社会を構成する一員」として当然のことというスタンスを、明確に表明したいということ。考えにくいことだが、福祉を大切にしますと比較的大きくアピールしている公明党や共産党が、仮に第一党になって政権を担ったと仮定しても、それでも浜坂は声を大にして政権批判をやめないだろう。そして、そこで批判されるのを嫌がる政治家、ましてや政治批判を保障する制度そのものを破壊しようとする政治家は、もはや政治家の資格がないと言わざるをえないだろう。

 

 なぜなら、権力の座にいる、ということそのものが、すでに差別の構造を生み出しているから。

 

 権力を批判しない新聞なんて、読みたくもない。差別される側の立場に立たない者の言説など、聞きたくもない。

 

 どれだけ障がいがあろうとも。どれだけ病気があろうとも。どれだけいじめられていようとも。人間扱いされたい。ほかの人と同じように生きたい。こんな願いを否定する言説。「障がい者なんだから何もしなくていい」などという言説に、来年も立ち向かっていく。差別される者の声を潰し、人間らしさを奪っていく、権力の側に立つ差別的言説に、来年も立ち向かっていく。

 

 この立場を「偏っている」と批判されるのならば、それこそ神奈川新聞よろしく「偏ってますが、何か」と言い返そう。「だから空気など読まない。忖度(そんたく)しない。おもねらない。孤立を恐れず、むしろ誇る。偏っているという批判に『ええ、偏っていますが、何か』と答える」「ほかの誰のものでもない自らの言葉で絶えず論を起こし、そうして民主主義を体現する存在として新聞はありたい」。

 

 浜坂も、福祉を語る自らの言葉を持ち、差別のない社会を実現する存在として、大きくなりたい。ここに賛同する人が少なからずいるということを支えにして、来年もしっかりと生きていきたいと思う。

|

« 「偏っていますが、何か」~その2~ | トップページ | テレビ報道の「顔」相次ぐ降板… 各局「公正」注文で及び腰? »