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2010年3月28日 (日)

時代と向き合うって難しい~「ウェルかめ」最終回に寄せて~・・・その5

「学会発表で日曜日に東京に行くんだけど、泊まるところがないんよ。浜坂、頼む」と、京都の大学院にいる友人から、先週電話がかかってきた。

浜坂、「友人の結婚式で石川県に帰っている」とウソをついて、断ってしまった。

部屋が汚すぎて人を入れられないというのがひとつ。だけど、それ以上の理由がもうひとつ。

夢のスタートラインにすら立てずに、のたうちまわっているような浜坂が、夢のど真ん中を歩いている友に、どの面下げて会いに行けというのだ。

とは思ったのだが、「それでもあなたに会いたい」なんて普段歌っている浜坂。今日、あわてて部屋を掃除して、友人に電話をかけたのだが。

「遅いわ~、泊まるところなくて仕方ないからさ~、奮発して今日中に帰ろうと思って、もう京都に向かっとる新幹線の中だわ~。浜坂、この埋め合わせはいつか必ずしてもらわんとかんな~」と彼のふるさと名古屋弁でキツク言われてしまう。

許せ。

やってやるよ、埋め合わせ。待っとれ。

とは思うのだが、あてがない。

「『ウェルかめ』のモチーフ、ウミガメには、地球の磁場がわかるコンパスがある。だから広い海も、迷うことなく泳いでいける。人間にも、そういうものがあるんじゃないか。大切なもの、大切な場所、大切な人に出会って、心に持ち続けていれば、自分を見失うこともないはず」と、ドラマの脚本家は言うけれど。

浜坂、大切なもの、たくさん持ってる。大切な場所、たくさん持ってる。大切な人、たくさんいる。

だけど、面接に行く先々で「あなたの目指しているものって、ウチじゃないんじゃないの?」って言われる。

悔しい。

ドラマのようには、人生うまくはいかないんですよ。だけど、「悲劇のヒロイン」を気取るのも、もうおしまいにしたいんですよ。

いつになるんでしょうね・・・「ウェルかめ」が最終回を迎えるまでには、と思ってたのですが、その願いもかないませんでした。

引き続き、先の見えない旅を続けることになりそうです。

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時代と向き合うって難しい~「ウェルかめ」最終回に寄せて・・・その4

大学時代は「研究者になりたい」と思って、「『悲劇のヒロイン』・・・」の問題意識を先んじて研究されていた人に、東京の大学院でも京都の大学院でも、ついていくつもりでした。学費が工面できずに断念しました。

児童館職員も経験しましたが、区立だったため正規職員になれずに断念しました。

福祉施設職員も経験しましたが、音楽活動との二兎を追って上京した先でことごとく縁がなく、現在に至っています。

「浜坂さん、文章力があるんだから、新聞記者とか雑誌編集者とか目指さなかったの?『ウェルかめ』のヒロインみたいに。オンストのフリーペーパーに寄せた文章を見て、最初、浜坂さんのことを出版関係の人かとカン違いしてしまったんですけど」なんて言ってくれた人もいました。

今となってはそんな人生もアリだったな、とは思いますが、当時は大学院に進む以外の途がまったく見えなかったので、今頃気づいても遅いよ、という話です。

ここまで就職活動がうまくいかないと、俺、結局何目指してるんだっけ、と訳がわからなくなってしまいます。子どもとかかわる仕事。障害をお持ちの方と関わる仕事。文章を書く仕事を今からはじめるったってねえ・・・「社会と関わる、時代と向き合う」という浜坂の問題意識では、共通するんですが。

さて、どうしたものか。

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時代と向き合うって、難しい~「ウェルかめ」最終回に寄せて・・・その3

浜坂は小・中学校と、いじめられっ子だったので、中学のときに「いじめ」が社会問題になったときに、学者の人がああだこうだ言ってたのに憧れて、大学は教育学部に進みました。

だけど、音楽の持つチカラを知ってしまった浜坂は、同じミュージシャンたちに、「音楽によって自分の人生がどう変わったか」をテーマにインタビューして、それを卒論にしました。いつかはこれを本にしたいとも、かつて言ってたっけ。よくよく考えれば、このとき使った「ライフストーリー法」というフィールドワークの手法、そのまんま波美たちが「チャレンジャー10」を作るのに使っていた手法そのまんまだ。

実家の石川県に帰ってしまったときに就いた福祉施設にはまってしまって、母も同じ病気を抱えていたものだから、「福祉の思想が広まればこの国は絶対に変わる」と、福祉を目指しているけど、今のところなかずとばず。

「いじめられた、傷ついた!」と誰かに騒ぎ立てることで、アイデンティティを保っていたような浜坂。「悲劇のヒロイン」を気取っていたんですね。そんな浜坂が、音楽のチカラで立ち直ったように、浜坂には中学校の時からずっと、「『悲劇のヒロイン』が人生を立て直す過程」を問題意識として持ち続けています。

それは音楽であったり、他の表現活動であったり。福祉の世界において障害をお持ちの方が「働けるようになること」が、まさしくそうであるように。誰かに向かって自分の表現を、あるいは仕事を届ける。そのことで、評価なり、労働の対価としてのお金を受け取る。

そのことで、「社会とつながる」ことが、人間の尊厳の回復につながるのだ、と。その瞬間、過去の「悲劇」はもはや「悲劇」ではなくなり、主人公が生きる物語の、ほんの一ページにしか過ぎなくなる。

「世界とつながる」とわめいていた波美も、「外から人を呼んでこの町の漁業を建て直す」とわめいていた鈴木一平も、そのことが、「人間らしさ」につながるのだ、ということを、知っていたのではないでしょうか?

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時代と向き合うって、難しい~「ウェルかめ」最終回に寄せて・・・その2

目標とする人がハッキリしているのなら、こんなにわかりやすいことはない。波美にとっての、マニフィーク編集長・近藤摂子のように。

ミュージシャン浜坂の場合、中島みゆきの影響で音楽をはじめてはみたものの、ステージの上から演奏するのって、何か今でも違和感を禁じえないんです。「高いところから、ホントにスミマセン」みたいな感じで。実力が伴っていなかったせいもあるけど、どちらかというと、大学時代によくやっていたように、酒の席で、ギターをかついで、みんなと一緒に・・・というのが性に合っていると、今でも思う。歌うことより、自分の歌や、あるいはヒットソングを歌うことで、「俺も実は・・・」と、人の昔話を引き出す、そんなことに喜びを感じていました。

だから、音楽事務所に所属して、とか、オーディションを受けに行く、とか、そんなモチベーションはハナからなかったし、今もない。でも、表現をする者、たくさんの人に聞いてほしいという思いだけは同じなんですけどね。

こんなモチベーションでやっているので、音楽でご飯を食べようとも考えたことはなく。でも、やめる事もできず。これが音楽の、辛いところです。

波美もマニフィークの廃刊、ゾメキの解散と、二度の失業を経験しましたが、同じく好きなことを仕事にできない浜坂、どうやって生きていけばいいのでしょうか?

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時代と向き合うって、難しい~「ウェルかめ」最終回に寄せて・・・その1

NHKの朝ドラ「ウェルかめ」が最終回を迎えましたね。

浜坂の職場、8時半の始業時刻前に、休憩室でNHKの朝ドラを見るのが何故か慣例になってまして。浜坂もバッチリ見させていただきました。

地元を紹介するフリーペーパーを作る流れになったときは思わず、身近でストリートミュージシャンに関するフリーペーパーを作っている、オン・ザ・ストリート・レーベル(厚木)のことを思ってしまいました。代表・今井さんのやろうとしていること、あながち間違いでもないんですよね。ただ、スポンサーを集めたり、スポンサーが喜ぶ紙面を作る、ということがヘタクソなだけで。

大学時代から、「時代の流れと向き合う」仕事がしたいとわめいている浜坂。「世界とつながる編集者になりたい」と繰り返すヒロイン、波美に、自分を重ね合わせて見ていました。

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2010年3月13日 (土)

「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン〜その5〜

「ありがとう『北陸』」とか「『北陸』の思い出よ永遠に・・・」なんて、プラカードを掲げる人たち。なんだ、列車自体のヘビーユーザーではないのね。えーい、マスコミも、そんな分かりやすい人ばっかりインタビューしてんじゃないよ・・・と心の中で毒付き続ける浜坂。

駅に住んでる人から、ダンボール一枚もらってきて、ひそかに持ってきた「浜坂の使用済み切符・個室カードキー・シャワーカード」の数々をそこに貼り付けて、プラカードとして掲げでもすれば、間違いなく浜坂もマスコミにモテモテになるだろうな、とは思ったのだが(笑)

あえてやりませんでした。

いいんです、主役は列車なんですから。福祉において、主役がクライアントやメンバーであるように。音楽において、主役がお客の皆様たちであるように。

いいんです、「ラストランを惜しんで千人もの人が集まりました」と報道される、その中のひとりとしていさせてくれれば。

さあ。これで、もはや上野駅へ行っても、どこへ行っても、昔の自分を思い出させてくれる列車を見ることはできなくなった。

職を転々とする、こんな俺でも、昔は夢ばかり見ていられた時期があったんだよ、と振り返って教えてくれる存在が、いなくなってしまった。

「ふるさとは遠きにありて思うもの」。「遠きみやこに帰らばや(帰りたい)」。そんな室生犀星の言葉を繰り返しながら、この「みやこ」を「帰る」べき場所、つまりこの東京の町をふるさとと呼べるように、夢をかなえて住み着いていけるための行動を、これからもやっていくだけです。

いつ願いが叶うのか分かりませんが。

叶った時には、あの切符たちをもう一度取り出して、ひとりで握りしめて喜びをかみしめたいと思います(笑)

さあ。今日は今から大学の同級生たちに会ってきます。浜坂の鉄ヲタ話の、餌食になってもらいますか(笑)

ではでは。

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「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン〜その4〜

かつて勤めていた福祉の世界に戻りたいと、最近就職活動を続けている浜坂ですが。

この間受けた面接。「音楽活動に専念していたために、職を転々としてきました」という書き出しで、職務経歴書を書いた。予想通り、「もしウチが採用しても、またすぐ辞めてしまうんじゃないの?」「いや、大丈夫です」の問答で、1時間以上応酬することになった。

音楽活動なんて、職務経歴書に書かないのが常識に決まってる。でも、これを書かないと、もはや浜坂の職歴の汚れは、説明がつかないのです。

東京と石川県と、住所を転々としてるから、石川県でせっかく福祉の仕事についていても、東京にいたい、音楽もやりたいし、何より一番尊敬する人の近くに行って、もっとたくさんのことを勉強したい、そう思って東京へ出ると、今度は福祉の仕事にありつけず、仕方なく工場勤務を転々。

その工場勤務をもって、面接で「福祉は、工場の仕事とはわけが違いますよ」なんて、納得がいかない。

30になるまで転々として、それでもなお月収28万を蹴って月収17万の世界へ飛び込みたいと思う、その「ずっと志していました」という気持ちが、分かってもらえないのかなあ?

大学で勉強したんだかしてないんだか分かんないような新卒の奴に「えっと、人と関わる仕事って、素敵だなと思いました」みたいな初々しいんだかアホなんだか分かんない自己PRをされて。

それと、たくさんの職場を知っている、就労支援ジョブコーチみたいなことだったら任せてください、職場での人間関係の辛さもたくさん知ってるから、就労支援先でクライアントに沿った労働環境改善の提案とかもできますよ、それって授産施設自体の職場環境改善にもつながりますよね、なんて浜坂とを天秤にかけられて。

それで浜坂が落とされるようなことになったら、納得がいかない。「そんな奴には負けない。負けるもんですか!」(もっとも、新卒がライバルとして面接を受けているかどうか、浜坂には知るよしもないのだけれど。)

・・・と言いたい気持ちをグッとこらえながらの1時間の面接。何で言わなかったかって?だって、そんな、人を蹴落とすようなこと、言えないよ。新卒だってそれはそれなりに大変な苦労をしながら就職活動してるんだもの。浜坂の新卒の頃も、そうだったもの。福祉を志すという意味では、浜坂の仲間だよ。そんな仲間を、蹴落としたり、悪く言ったりすることなんて、できないよ。

だから。昨日、そして今朝。上野駅で嬉々としている葬式鉄たちに少しの反感を覚えながら、同じマニアとして、鉄道を愛するものとして、ここはグッとこらえたんです。「俺のほうが・・・!」なんてみっともない争いは、無しにしとこう、と。

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「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン〜その3〜

「葬式鉄」「サヨナラ運転マニア」を自認してはいるけど、今回は、そういうモチベーションで出かけて行ったのではないのです。

実際、いつもなら真っ先にゲットする、記念の駅弁とか、キーホルダーその他のグッズも、今回は何だか辛くて見ていられなかった。逆に、列に並んで浮かれているマニアたちに、ムカつく気持ちをこらえるのが大変だった。

この列車を有名人のように扱うことが、どうしても納得いかない。何だか、あまりに実感がなくて、また明日も上野へ来たら会えるんじゃないか、そんな錯覚をしてしまう。

この列車にはじめて乗ったときは、ワクワクして一睡もできずに、富山・親不知やら新潟・柏崎あたりの海岸線を車窓越しにずっと眺めていました。

「最初のころは寝れなかったけど、もうだいぶ慣れたので、ブルートレインの揺れの中で寝るのにも苦労はしなくなりました」とは、浜坂のひそかな自慢話でした。

そんなことを思い出しながら、ゆっくりと入線して来る列車を見つめる。まばたくフラッシュの中で、浜坂は実感が持てずに、呆然と立ち尽くすしかありませんでした。

職を探してさまよう身。この「北陸」「能登」引退のように、浜坂も、もはや夢を見ることなどあきらめろ、ということなのでしょうか?

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「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン。〜その2〜

「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン。〜その2〜
「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン。〜その2〜

石川県出身。大学受験のホテルが取れず、この寝台特急「北陸」で上京、受験。
 
そして合格。大学近くにアパートを借りて、いざ上京するときも、父に頼み込んで「北陸」の切符を取ってもらった。
 
上京前夜、金沢駅のホーム。高校の音楽担当、恩師の山崎先生に、買ったばかりの携帯電話で、「行ってきます!」と別れの挨拶をする。
 
懐かしいなあ。
 
そんな列車だから、思い入れがあるのよ。多くのブルートレインが、「不便」で「時代遅れ」と評される中で、
 
①深夜に出発して早朝に到着という時間設定、②個室寝台の充実、さらには③割引料金も適切で、
 
ビジネスマンに根強い人気があったこの列車に対して、「不便」「時代遅れ」という評価は浜坂、真っ向から否定する。。浜坂もマトモな仕事に就いていたときには、この恩恵に何度となく浴した者の一人です。
 
学生時代に頻繁に使った「能登」とともに、東京都区内に用事で出ているときは、ふと思い出したようにこの列車を見に来る。夢を見ていた若かりしころの自分を振り返って、人生を考え直すには、この列車は必要不可欠な存在だったんです。

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「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン。〜その1〜

 「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン。〜その1〜
 「こんな俺でも夢を見ていた」教えてくれた証が消えた・・・「北陸」「能登」ラストラン。〜その1〜

過去の日記に挟んでおいた切符を片っ端からかき集める。
 
これだけしか取っておいてなかったか・・・
 
でも、浜坂は自信を持って言える。
 
この上野駅に集まった千人とも三千人とも言われるマニアの中で、浜坂の十数回を上回る乗車履歴を持つ人間は、そう多くないはずだ。
 
にわかマニアども、調子こいて「ありがとー!」なんて叫んでんじゃねーよ。大して乗ってもいないくせに・・・!!
 
・・・なんて書いたら、マニアの仲間たちから袋叩きに遭うことは分かってる。でも、こうでも叫ばないとやってられない気持ちが存在するってことも、マニアを自負する人なら分かってくれるはず。
 
許してください。
 
3月12日、夜。ダイヤ改正によって、この日最終運行を迎えるブルートレイン「北陸」、夜行急行「能登」を見送りに、浜坂は上野駅の人ごみの中にまぎれていました。

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2010年3月10日 (水)

お礼状を投函するのが遅すぎる。

まったく。職員採用面接は昨日の14:00なんだぜ。

その日の夜に書いたお礼状、投函が今日の22:00って、おかしくね?

自宅アパートの近くにも、職場の近くにも。通勤途中にも、最寄の駅にさえ、ポストがないって、いったいどんな田舎なのー!

面接が終わって職場へトンボ帰り、22:00まで仕事して、日付が変わるころに書いたお礼状。通勤途中にポストがないもんだから、今日の仕事終わり=21:30で最寄の橋本郵便局へ、徒歩30分かけて直行。

疲れた。

お礼状、いつ届くんだろうね。明日中に届かない可能性もあるよね。そうすると、明後日・・・面接から実に3日後!

こんなの、就職の意思なし、と見なされて当然じゃんね。そんなことで、案外採否って、決まったりするものなのよね。

それで不採用になって、先方から出した不採用通知と、浜坂のお礼状が、行き違いで届く、なんてことになったりして。おかしすぎて涙が出てくる。

期待すれば、落ちたときのショックが大きくなるのは分かってるけど。仕事の数少ない合間を縫って、それでも無理をしてまで職場に時間作ってもらっての面接。そこまでしてかけている思い。伝わらんかなあ・・・!受かりたいなあ・・・!職歴の汚れって、そんなにイケナイことなのかなあ・・・!福祉に染まりたかったのに、縁がなくて染まれなかったから、職歴を汚さざるを得なかった、それだけの話なのに!

その前に、今のこの膨大な仕事の量を、何とかしてほしい・・・!今日は疲れた・・・わずかな時間の眠りの中、もう夢の中の話では終わらせたくないのだけど。

疲れた。もうすぐ下りる駅だ。アパートに着いたら、すぐに寝よう。明日からまた、出直しだ。

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2010年3月 8日 (月)

福祉施設の職員採用面接を受けに行くのだけど。

明日、福祉施設の職員採用面接に行くので、それに関わる知識の復習をしていたのですが。

いろんなこと、完璧に忘れてる(泣)

今回、テキストとは別に、復習したい言葉をインターネット検索して、それをプリントアウトしたものを片っ端から読んでいたのですが。

ネットの方が、分かりやすい(笑)

過去に自分のしていた仕事。ああ、なるほど、こういう制度の裏付けがあってのことだったんだ!って気付くことがワンサカ出てくる。

毎日こなす作業ですら、「毎日を過ごす場所の確保」「働く場所の確保、就労支援の一環」だけでなく、それがすでに「リハビリテーションの一環」となっていること。頭では分かっていたけど、今回改めて、すとんと「腑に落ちる」。

遅せーよ(泣)

この期に及んで、勉強不足を「生活に追われていたため」とは、単なる言い訳でしかなかったことに気付く。たかだかネットで検索するだけで、こんなにたくさんのことを知ることができる。要は、やる気がなかっただけのこと・・・

もしくは、ネット検索する、そのことすら考えつかなかった、時代遅れの人間だった、ということ。

凹み。

明日の面接。たぶん落ちるな。ま、気を強く持って臨みましょう。


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2010年3月 3日 (水)

福祉施設に履歴書を出してみた。

前回「求人がないっ!」と騒いだ件。

結局、一カ所に履歴書を出してみた。

障害者の福祉施設。

あれっ「子どもの前に立ちたい」って言ってたのは?

・・・これを説明するのは話が複雑なのですが、浜坂、もともと、ある福祉の資格を取りたいと考えていまして。それが、心のケア、いわゆるメンタルヘルスというものをサポートする、という資格なのです。わざとオブラートに包んで話をしています。デリケートな問題なので。分かる人には分かる。

それは、実家の石川県で、福祉施設職員として働いていた時、その資格を持っていた同僚たち先輩たちの仕事ぶりに憧れてのことなのです。

再び上京して、福祉施設の面接を何度も受けましたが、なぜか「結局あなた、教育の世界の人間なのでしょ」と言われ続けて、希望の職に就けないまま現在に至っています。

そうこうしているうちに去年、教師をしていた友人が自殺してしまったり→http://ikou-amarubetekkyoh.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-657f.htmlとかで、もう一度「子どもの前に立ちたい」とわめき散らすようになりました。

でも、やることは一緒なんです。浜坂、大学時代から、「教育の世界の言説は言っていることが小さい」と感じ、もどかしさを感じていました。「飢えている子どもを前にして、私の哲学は必要な重みがない」と言ったのはフランスの哲学者J・P・サルトルですが、まさしく「今、自らの命を絶とうとしている子どもを前にして、教育の世界には語りかける言葉がない」と、ずっと感じていました。中学まではいじめられっ子だったので、どうしてもそういうナナメからモノを見るクセがついているのです。

今この瞬間、どこかで自らの命を絶とうとしている人に対して、私たちはどうしたらその行動を止められるでしょうか?

・・・中学時代から日記に書き続けているこの問いに、浜坂は「音楽」というひとつの答えを提案し続けています。かけがえのない音楽に出会った時、人はそれまでの辛さを一気に相対化してしまう、音楽にはそんな不思議な力がある。その力を信じて、浜坂は音楽活動をしている、そんなフシがあります。

だけど、 ひととき音楽の力で立ち止まらせたところで、その後が続かないことには、どうしようもありません。

そこから、社会復帰へ向けてサポートする。そんな仕事を、ある期間、間近で見てきました。あんなに毎日笑顔で過ごした日々は、そうそう無かったです。

「自らを取り巻く悪しき状況を把握し、そこからの解決策を探っていく」というスタンス。このスタンスが、福祉の世界に残っていたこと、さらに世に押し広めようとしていたことに、浜坂は感動したのでした。

教育の世界にも、公害について学ぶ授業など、古きよき教育実践には、このスタンスが貫徹していたものですが。というか、そういうところに魅力を感じて一度は教師にもなったのですが。

今は、「みんな違って、みんないい」の世界、「闇」の部分を見つめようともしない。子どもの自殺が起きれば「指導方法に問題はなかった」の一点張り。それを皮肉って「白い闇」「アカルイ闇」と評する教育学者もいます。ですが、こういう言葉すら、なんだか薄っぺらいですよね。浜坂が教育の世界に飛び込みながら、一度は見限った理由が、ここにあります。

大学で、教育哲学の先生に「これが今流行の思想なんだ」と教えてもらった思想が、人生の振り返りをして自己の中で意味付けをしていく、という「ライフストーリー法」(京都大学やまだようこ他)というもの。それ以来この思想の実践を、と浜坂はのめり込み続けていますが、よく考えれば教育学はこのときすでに、こういった心理学の手法を借りなければ、立ち行かなくなっていたのでした。

福祉施設に勤めて、直球ド真ん中で福祉の思想を世に広める活動をしたい、という思いは、やはりあります。あまりに求人の数自体が少ないので、ここしばらくはこの業種で仕事を探すことそのものをあきらめていた。久しぶりに見てみたら、思いがけず求人が出ていたので、あわてて履歴書を送ってしまいました。

仮に障害者福祉ではなく、児童福祉の方へ進むことになっても、取る手法は、まさしく福祉の手法、冒頭の資格取得を目指していきます。メンタルヘルス、という思想が世の中にもっともっと広まれば、世の中は変わる、間違いなく変わる。ねっ同じなんですよ。浜坂にとっては、どちらの世界へ行こうと。

でも、これを、面接で分かってもらうのが、至難の業なんだよなあ。

障害者に向き合う仕事と、子どもに向き合う仕事と。これまでも、これからも履歴書を送り続けていきますが、どちらに縁があるでしょうね。引き続き、模索していきます。

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